友達が癌になっちゃった
癌になった友達は四十代中盤の男性。二人の子供がいて下の子はまだ0歳です。癌の進行度はステージⅣ。末期です。
時代ですかね。Facebookで公表してて知りました。軽妙な感じで書いていたので早期なのかな、なんて思いながら別の友達と二人でお見舞いに行きました。
実際に会うとかなり憔悴していて、Facebookの文章から受ける印象とのギャップにまず気圧されます。そしてしばらく話した後に末期であることを知らされて、完全に言葉を失います。思いつく全ての言葉が不適切に感じ、かといって沈黙にも重すぎて耐えられません。
我が子の話しを始めると彼はこらえきれずに涙を流しました。僕も彼が癌であることを知った時に家で泣いてしまいましたが、彼の涙を眼前にしては一滴の涙も出ません。涙の重さが違いすぎるんですね。
今後の治療のことや、手伝えることがあるかなどを15分ほど話して帰りました。
帰りの車の中では友達と色々な話をしました。でも、いくら話しても言葉が上滑りするような感じで、心に浮かぶ感情や思いを言い表すことができないんです。それからしばらく経ったので上手く言葉にできるかもしれないと思ってこの記事を書いてみましたが、読み直すとまったくだめですね。それでも公開してみるけど。
癌患者に対するベストなお見舞いってなんだろう
お見舞いには行ってみたものの、なんか心にモヤモヤとしたものが残ります。
- どんな言葉をかけたらよかったんだろうか。
- または言わないほうがよかった言葉はあったんだろうか。
- お見舞いの品はどんなものがよかったんだろうか。
- そもそもお見舞いに行ってよかったんだろうか。
- 今からでも力になれることはあるんだろうか。
良くわからないんです。患者とお見舞いをする人の関係性によっても、ベストは違うでしょうし、そんなことを考えても意味が薄いのかもなあ、とも思います。ほんと、良くわからないけど、次に癌患者を見舞う時はどうするかなー、自分だったらどんなのが嬉しいかなーって観点から書いてみます。
- 短い時間で帰る。
- 「きっと治るよ」といった励ましは能天気な感じもあるので言わない。
- 抗がん剤の副作用で食欲がない場合が多いので、食べ物の見舞い品は持っていかない。
- 泣かない。一緒になってがっかりしない。
- 自分はしゃべらず、できる限り話を聞いてあげる。
- 治った時の軽い約束をする。
【2017/9/1追記】
この記事を書いて少し経ちました。最近では伝えるべきことは「治療がうまくいくことを祈ってる」だけなんじゃないかという気持ちになってきました。相手がどんな事を言ってほしいんだろう、なんてかっこつけようとすればするほど、言葉が上滑りして相手に伝わらないんじゃないかと思えてきたんです。自分が望むことをそのまま伝える、これがなによりも肝心だと。
この体験から導き出される教訓とは
前にも書きましたが、この体験から感じたことを言葉にしようとしても凄く難しい。何か重大なことを示唆されているような気がするけど、それを掴み取れないんです。そんなものを教訓とかいって簡単な言葉でまとめてしまうと、当たり前のように陳腐になります。
- 健康的な生活を送っていても癌になる。癌で死なないためには早期発見しかない。定期的に健康診断を受けよう。
- 人は必ず死ぬ。それがいつかはわからない。やりたいことはなるべくその都度やるようにしよう。
- 家族に残せるのは資産と思い出とメッセージだけ。僕は資産が難しそうなので、思い出くらいは多少残したいなあ。
はあー、ほんと陳腐。心に響かない言葉に成り下がるなあ。こういう抽象化すると途端に陳腐になることを、心の奥底に届かせるために文学は存在していると言ってもいいんじゃないかと思います。
お見舞いの品は何がいいだろう
お見舞いの品として、僕は折り紙の教則本と折り紙を渡しました。お見舞いに来る子供を、折り紙で喜ばせてほしいという思いです。別の友達は使わなくなったiPadとネットができるハンディルータを渡していました。患者がガラケーしか持っていないことを知っていたからです。
末期がんだと聞いたのはお見舞い品を渡したあとだったんですが、帰りの車中で友達はネット環境を提供したことを後悔してました。ネットで病気のことを調べて暗い気持ちになるんじゃないか、と。
僕が品物を選ぶ際に考えたのは、
- 小説のように読んだら終わりというのではなく、繰り返し使えるもの
- 手を動かせるもの
- 看病する家族を楽しませられるもの
- 病気が治った後にも何か残るもの
といったことです。最初はルービックキューブとか手品の教則本にしようかと考えましたが、実際に本屋に行って折り紙の教則本に決めました。手軽だし、作業が形に残って、子供が喜びそうだからです。
もっと良いものがあったかなあ、と今もついつい考えてしまいます。
僕の思ったこと
死刑囚は毎朝、刑務官の足音に怯えるそうです。今日が執行日なんじゃないかと。そしてその足音が自分の房を通り過ぎるとホッとするんだとか。
確かにそうでしょう。でも、死刑囚じゃない僕達のような普通の人々にも、突如として死を突きつけられることはあるわけです。例えば突然死、交通事故、不治の病の宣告。そう考えると、人は生まれながらにして死刑囚のようなものだとも言えます。
でもなぜか僕らは日々、死のことを忘れて生きていられています。なぜなんでしょうかね?死が遠いから?いや近いか遠いかは誰にもわかりません。近くで死ぬ人を見る機会が少ないから?そうかも。
どうであれ、この「死のことを忘れて生きていられる」ということが、気楽さの土台になっているんでしょう。
僕の父親は白血病で死にました。看病している時は毎日「死」を眼前に突きつけられている気分でした。「お前もいつかこうなるぞ」と。そしてまたこうして身近な友達が、死にいたる病を患ったことで死を意識させられます。
そして死を恐怖したり、こんなにダラダラと生きていていいんだろうかと考えたり、気楽さを失います。しばらくするとまた死を忘れてダラダラするんですけどね。
きっと年を追うごとにこうした機会は増えるでしょう。もしかしたらその繰り返しによって死が身近になっていき、ゆったりと死を受け入れていけるのかもしれませんね。
この記事には後記事があります。