「自分探し」の危険性(オウム死刑囚執行関連ニュースを見て思ったこと)

中国新聞の森達也氏の寄稿を読んだ

2018年7月11日付け8面。

森達也は広島県呉市出身なんですね。オウム真理教のドキュメンタリー映画を監督してるようですが観たことはありません。氏の佐村河内守氏の例の騒動後を追ったドキュメンタリー映画は見ましたが、かなり面白くてそれ以来名前を覚えていたのでした。そういえば佐村河内守氏も広島市出身だったな。

寄稿文の気になった部分を要約します。

  1. 麻原が語らないまま執行されたので、オウムの一連の事件において、麻原がどういう理由でどのような指示を幹部に下したのかは結局分からず終いだった。
  2. ヒトラーも自殺したために、ユダヤ人大量虐殺をどのように指示したかはわかっていない。
  3. ゆえにナチスに対しては様々な歴史解釈が生まれている。
  4. 閉じた集団は往々にして、外に敵を、内に異端を探す。オウムを含めて今までもこのような集団による事件は起き続けてきた。これからも起きる可能性を常に孕んでいる。

(3)の歴史解釈ですが、ネオナチなどのナチス信奉者を生んでいるということも含んでいるんでしょう。オウムも不明な部分の解釈次第で、今後も信奉者を生む危険性がある、と言っているのだと思います。

思ったこと

組織というものは常に危険を孕んでいる

ナチスで大量虐殺を指揮したアイヒマンは、実際に会ってみると実直でおとなしく、善良にすら見える男だったようです。アイヒマンが特別な人間だったわけではなく、閉じた集団の中で権威に命令されると、私達のような普通の人々でもとんでもないような虐殺を指揮してしまう可能性があるのではないか。そういった仮説はミルグラム実験(アイヒマン実験)によって実証されました。

オウムでもおそらく同じメカニズムが働いていたでしょう。「わたしは大丈夫」はうぬぼれかもしれません。

人命に関わる話から、食品、建設、工事、品質、会計などなどの偽装に至るまで、組織にはこのような暴走の危険があることを、前提というレベルで皆が認識すべきではないでしょうか。

自分探しも危険だ

死刑囚の一人、井上嘉浩は執行の約10日前に面会で以下のように語ったといいます(2018年7月8日朝日新聞配信)。

1人のカリスマを絶対的に正しいと信じることは間違いだった。自分も、絶対的に正しい人になりたいと思ってしまった」

死刑となった信者達を一人ひとり調べてみると、オウムに入信する前から人生の意味を考え、社会のために何かを成し遂げなければならないと考える、ある意味では真面目な者が多かったようです。

これは一時期流行った言葉で言うところの「自分探しをする若者」に近いのではないでしょうか。

今の自分は本当の自分ではない。本当の自分はどこか別にあるはずだ。それを探さなければならない

今も昔も、物質的に豊かになれば次に求めるのは精神的豊かさです。しかし、目に見える物質に比べて、心はとらえどころがないし、常に変化するし、体調などの身体の影響からも切り離せないし、人に見せて誇ることも難しいという複雑さを持ちます。そこに「自分の心を捉える」ということの難しさがあります。

自分は「探すもの」ではなく「作り上げていくもの」なのではないでしょうか?探して見るかるようなものとは思えません。
探してしまうと、ふとカリスマに出会ってしまった時に「本当の君はこうだ」と「カリスマの作った自分」を掴まされてしまうのではないでしょうか?
そしてオウムのような極端な事例だと、大量殺人の加害者を経由して、処刑台まで連れて行かれてしまいました。そこが彼らにとっての「世界の果て」であり、果てまで行って見つけたのは「自分」ではなく虚無のようなものだったのではないかと思うんです。

カリスマの言うことも自分作りの材料の一つと捉え、ゆっくりと一生をかけて経験と知識を縦横に織り込むように、丁寧に自分の手で自分を作っていく、くらいの心構えのほうが極端に走ることが少なく、実り多い自分を手に入れられるのではないかと思うんです。

人の一生とは「自分との、そして自分を含む世界との和解のプロセス」のようなものなのではないでしょうか。自分に対しても、自分以外(世界)に対しても違和感を感じるのはしょうがないことですし、程度の差はあれど誰一人として例外ではないでしょう。

焦ってはいけない、一生をかけて解決していく課題なんだ、と思ったのでした。

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