広島県立美術館にて、2017年2月23日〜3月12日まで開催されている、第63回日本伝統工芸展に行ってきました。
うおー!伝統工芸!
前回の清水南山展も多分伝統工芸でした。伝統工芸の定義も鑑賞ポイントもわからないけど、そんなわからない人間が行く事に面白さがあるんじゃないか、と思って行ってきました。
芸術、美術に関してはオンチの僕ですが、いつも思うのは「美しい」という感覚には、多くの人に共通するものがありそうだ、ということです。
今回の伝統工芸展も一言で言うと「美しい」です。美しいものを見るとなんか心に良い作用があるような気がするので、伝統工芸もなかなかに良いな、と思いました。
伝統工芸展のジャンル
伝統工芸展には初めて行ったんですが、どうも伝統工芸には以下のようなものがあるようです。
- 陶芸
- 染織
- 漆芸
- 金工
- 木工
- 人形
- その他(諸工芸)
前回の清水南山はこの中の金工ってジャンルですね。僕はジャンルとして好き嫌いはあまりないんですが、なんとも惹きつけられるのは箱です。箱は木工、漆芸、金工など技術ジャンルによらず作られているようです。
箱に入れるものも伝統的
箱。
何かを入れるものです。箱は脇役でその内容物が主役な感じがしますが、工芸展として展示されている箱は、その時においては主役です。(製作者が箱を主役と思っているかはそれぞれでしょうけど)
その箱は、短冊箱とか名付けられていて、「短冊ってなーに?」な現代人からすると隔世感満載。
展示されている綺麗に作られた短冊箱に、短冊が入れられることはあるんでしょうかね。もし短冊を入れられないとすると、道具としてちょっと可哀相だなと思います。
スマホ箱とかブルーレイディスク箱とか時代に即した箱、またはへその緒箱とか時代を選ばない箱を作ったらどうだろう。実際に使われることになった時に、その箱は喜ぶんじゃないかな、と思いました。展示されている作品達の使われることのないであろう「未然感」が切ない。
道具が一番輝くのは大切に使ってもらった時だと思えたんです。
技巧に凝るとプリントみたいに見えてしまう。
坪や箱に凄い緻密だったりリアルだったりする絵が書いてあると、CGプリントのように陳腐に見えてしまうような気がしました。今の御時世、人間に求められているのは単純な技巧じゃなさそう。求められているのは今も昔もその作品に込められた心なんかなー。
人の心を動かすのは人の心だ、なんて思います。
工芸品を買う人ってどんな人なんだろう?
下世話な話ですけど一番気になったのは、作品を出品している作家さん達がどうやって暮らしているかです。こういった作品を売って稼いでいるのかな?どこかで先生をやっていて、作品作りは金銭と分けて考えているのかな?
かつて僕が勤めていた中小企業の社長室には、こういった工芸品が沢山ありました。買って売ったら稼げるんだ、と社長さんは言います。そういった工芸品の横にえびす講の熊手や、目の入っていないだるまがありました。「このだるまは息子が送ってくれたんだよ。事業がうまくいくようにね」とも。
そして会社が潰れた時に社長室に行くと、工芸品は全て夜逃げした社長が持って逃げていて、熊手とだるまだけが残されていました。あとは金になりそうにないブラウン管のテレビ。息子の気持ちよりも資産価値ですかー、なんて思ったものです。
もし、展示されている工芸品が道具として使われておらず、美術品として投資(投機?)対象としか見られていないなら、技術と美が経済に犯されているようにも思えます。考えすぎか。
「先人たちや現代の僕以外の人達がこれを美しいと感じるように、僕もなにやら美しいと思えるぞ。それって他人と感覚を共有してる自分が世間に馴染んでいる気がする」といった安心感を感じたり、会社が潰れた時のことを思いださされたり、なんとも味わい深い企画展でした。